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CODAの手記

 あるコーダの方から、これまでの人生をしたためた手記をいただきました。聞こえない親との道のりの中で感じた、さまざまな気持ちが描かれている、私の大好きな文章です。

   大人になったコーダの話ですので、時代背景も反映されていて、中学生や高校生のコーダのみなさんにはピンとこない部分もあるかと思いますが、同じコーダとして共通する部分も、もしかしたらあるのではないかなと思います。

 コーダの気持ちや経験は人それぞれですが、ある1人のコーダが、何を思い、どんな人生をあゆんできたのか、ぜひみなさんに知っていただければ嬉しく思います。

​ *その他のコーダの「自分史」は、ブログ「コーダとスクーター」をご覧くださいね!

  https://ameblo.jp/marblemammy/theme-10111103131.html

 

私の場合

(コーダとしての自分自身を思い返して)

 

 

はじめに・・・

 父親は乳幼児期の病気で聴力を失った。負けず嫌いで曲がったことは大嫌い。明るくて前向きな性格である。母親は生まれつきのろうあ者。ろうあで生まれたこと小学校にさえ通わせてもらえなかったことをいつも恨めしく思っていた。手芸などのこつこつした物作りが得意だった。

家族構成・・・

 父、母、私、妹(私より3歳年下)

 

 

児童期(12才以下)

「友達の親と自分の親は違う」と、ぼんやり気付いたのは幼稚園の頃(でも、さほど気にしていなかった)。

思い起こせば(幼少期から児童期まで)親戚や近所の人、学校の先生から「オハくんは偉いね!」という言葉を良くかけられていた気がする。自分は、その意味も分からずただ素直に喜んでいたが(笑)。意味が分かってきたのは8歳の頃(小2)だったろうか?

○授業参観は、嬉しくもあり恥ずかしくもあった。

小2の時、先生が「お母さんが来てくれて良かったね(笑)」と声を掛けてくれた。何となく幸せな気持ちになれたが、同時に親のことが他の友達にバレるのが何となく怖かった。同時にそう思う自分が後ろめたかった。

○小2の時、友達から「おーい、つんぼの子!」と冷やかされたことがあった。

勿論、心の中で激怒したがその時は我慢した。後日談:小6の時、トイレでしゃがんでいたらそいつがドアの上に這い上がり覗いて冷やかしてきたので、ついに堪忍袋の緒が切れた。小2の時の思いも込めて思いっきりビンタを食らわしてやった(笑)

 

○確か小3の頃?、親を説得して家に有線(電話)を入れてもらった。

これで友達とも連絡が取り合えると喜んだが別の苦悩も始まった。大好きなテレビ番組を見ている最中に電話のベル。町内の人から親への伝言や確認の中継依頼だ。こんなことが続くとさすがに機嫌が悪くなった。

一時期は「電話が鳴ってるぞ、お前がとれ!」と、良く妹と喧嘩をした。通訳に費やす時間は大好きなテレビが見られなくなる時間なのだ。

○小3だったろうか?母親がこぐ自転車の荷台に乗って田んぼのそばを通った時である。

農作業していた人が苗に付いていたドロを払ったのだが、運悪くそのドロが私達に降りかかってきた。母親は「うっ!」と言ったきり文句も言えない。後ろにいる私はまだ子供。そのまま通りすがりながら「声が出せたら文句の一つも言えるのに・・・」と、母親の背中で悔し涙を流したことを覚えている。

○小4の冬、盲腸の手術をした。

普通は、医者が親に病状を説明するのだろうが、腹が痛いのを我慢しながら医者の説明を私が母親に通訳した。

何とも運命を恨めしく思った。

○確か小4の頃、父親(42歳)が胃がんを疑われ病院に入院した。

母親(37歳)と一緒に病室にいた時、母方のお爺ちゃんが見舞いに来てくれた。私が両親の通訳をしている姿を見て隣のベットにいた患者が「本当に偉い子だね」と褒めてくれた。

そんな言葉はよくかけて貰っていたが驚いたのはお爺ちゃんの言葉だった。「そうなんだよ、この子は天使の子なんだ」と言ってくれたのである。その言葉、心の底から嬉しくてお爺ちゃんのことがすっごく好きになってしまったことを今でも覚えている。

 

○大人社会の言葉を理解するのは大変だった。

子供の自分には意味の分からない用語を使われて親への通訳を頼まれるのだが、意味が分からず通訳に困惑したことが良くあった。多分「こんな感じのこと・・・」と自分なりの解釈をして親に説明していたと思う。

○思い起こせば、親の耳となり口となることを使命に感じ頑張っていた時期もあったが、

親に頼られ近所の人や来訪者にも頼られることが重なってくると、とてつもなく苦痛に感じることもあった。

病院に行った時、待合室で手話を使うのが恥ずかしかったことを記憶している。

原因は、明らかに他人の視線だった。好奇の目で見られた事を良く覚えている。人が見ていない合間を見て親と会話したり、人の背中越しに親と会話したりした。

○小4の頃から、友達の家に遊びに行くようになった。

子供ながらに家に友達が来たら驚くだろうなと思うようになり、友達を家になかなか誘うことが出来なかった。でも、思い切って「この間、○○ちゃん家で誕生日会やったから今度は僕んちでやろうよ!」と友達を誘ったことがある。小5だったと思う。

かなり不安はあったが、来てくれた友達が親と会った時に「僕の親は耳が聞こえないんだ」と勇気を出して紹介をした。皆、一様に「あっそう」の一言だけで、その後は限られた時間を楽しく遊んだ記憶がある。母親がカレーライスを作ってくれたことも嬉しかった。

でも、親がろうあ者だということが友達を通して他の友達にも知れるだろう。それを聞いた友達はどう思うだろうか?

隠すことではないと分かっていながらも、その後の友達やクラスメイトの反応がかなり心配ではあった。

 

○今も若干そうだが、自分は特別な家庭の子という思いが子供ながらに備わっていたように思う。

心のどこかにお前らとは違うんだ!みたいな思いが・・・。

何年か前にあったクラス会で旧友(女性)からの言葉にハッとさせられた。「当時のオハくんは、壁のようなものがあって最初は取っ付きづらかったんだよ」だって。う~ん、確かにそうだたかも知れない。特に女性には・・・。

○手話をきちんと覚えてもっと親とコミュニケーションを取りたい。

もっと満足な通訳ができるようになりたいと思った時期があった。確か小5の頃だ。

だが、単語や熟語を紙に書いて「これ、手話でどうやるの?」と聞いたり、親の手話でわからないところを「その手話、どういう意味?ここに書いて・・・」と質問しても、学の無い親から満足な答えは帰ってこなかった。父親は小学校しか出ていなかった(国語能力は小1程度?)。母親は全く学校を出ていない。

そのうちに(2~3ヶ月後)親は自分の浅学を卑下するようになり家庭の空気は重くなった。

当然、親から文字を介して手話を教えてもらうことは諦めた。同時に、親に学が無いことを憎み、親を学校に行かせなかった実家を憎みそんな時代だったことを恨み「その結果が今にある」と、つかみ所の無い運命を憎んだこともあった。

○そういえばFAXもそうだ。

父親がいちいち「この文章で良いか?」と聞いてくる(確かに変な文章だった)。最初のうちは親切に教えていたが、忙しい時や機嫌の悪い時はとてもわずらわしかった。

 

○幸か不幸か、従兄弟にもコーダがいた。

このことは、同じ環境に育つ者同志確かな連帯感があった。コーダとしては恵まれていたのかも知れない。しかも、従兄弟の親は学があり、とても賢い人で手話を学ぶには最高の先生だった。家に遊びに来てくれた時、良く手話を教えていただいた。手話が上達すると凄く褒めてくれた。

○いつだったか、その叔父さんが私の手話表現を見て腹を抱えて笑ったことがある。

「表現力が豊でとても面白い」と私の手話を凄く褒めてくれたのである。

勿論、嬉しくてもっと手話を覚えたいと思ったのは言うまでも無い。自分の親の足りないところを多少なりとも補ってくれた叔父さんには今でも心から感謝している。

コーダである従兄弟同士だが、そんな賢い親を持つ従兄弟がとても羨ましかった。従兄弟に私がしてあげられることは何も無かったが、少なからず私のほうが先輩だという思いはあった。恥ずかしながら、コーダの先輩として強く逞しく明るく生きていこうという思いだけは心の底にあったような気がする。そんな心配は全く無用だったけれど(笑)。

 

 

 

 

青年期(12才~20才)

○中学生になると、歌謡曲が全盛だった。

友達の家に行くとレコードがあり流行の歌を良く聴かせてもらった。テレビでも歌番組が多くあり、好きで良く見たり一緒に歌ったりしていた。母親から「耳が聞こえて羨ましい」と何度か言われたことがある。何だか罪悪感を感じた。同時に何でこんなことでこんな思いをしなければならないんだ!と運命を恨めしくも思った。反抗期だったのかもしれない。

中1の頃はテレビで我慢していたが、中2になると我慢できなかった。

親が絶対嫌がるだろうと知りつつもレコードプレーヤーをねだった。普通の子供と同じことをしたかったのだと思う。その後は、やはり流行っていたウクレレやギターもねだった。母親はいい顔をしなかったが父親は快諾してくれた。

今、思えばあの時の自分は本当に親不孝だったろうと思う。

母親が親戚によく愚痴をこぼしていたらしい。だが、心から音楽を楽しめない環境を恨めしく思ったのも紛れも無い事実である。

○部活や勉強?で忙しい中学生活だった。

しだいに親のことを置き去りにしていた気がする。親が厄介者に感じていた頃である。一緒に生活していた妹さえ何かと私を頼っていた。私の心に少しずつ芽生えてきたのは「大人になったら絶対この家から出てやる。様々なわずらわしさから開放されたい。コーダとは関係の無い世界で生きて行きたい」という強い感情だった。

○多分コーダのせいだろう。

同年代の子供と比べると少し大人びた雰囲気があったのだと思う。部活では中学も高校もなぜか部長に選出された。

○遊び盛りの高校生だった。

学校近くのアパートに住む友人の家に何人かで遊びに行ったとき、このまま泊まろうという話になった。勿論、他の友達は家に連絡していたが私は連絡をしなかった。妹への「伝言願い」と言う形になるのがうっとうしかったのだ。「家は連絡しなくても大丈夫」そう言って一晩中遊んだ。

翌日、家に帰ったら親から「寝ずに待っていたんだ」と怒られたが「連絡したかったけど、無理だろう!」と私は逆切れした。今思えば、本当に悪いことを言ったと思う(反省)

○今になって思うと、あの頃の自分は本当に親がわずらわしかった。

親もその事を感じていたのだろう。しだいに私に頼ることを諦めていたように思う。

そのことは、同時に私のコーダとしてのストレスを薄めることに繋がっていった。

 

 

 

成人期(20才以上)

○高校卒業して大学には進学しなかった。

というか、自分自身勉強も好きではなかったが、親が常に金が無い金が無いと言っていたので進学は完全に諦めていた。今でいうフリーターだった。自分の人生(仕事)に思い悩んでいる時期でもあった。

22才の時、志を持ち東京の専門学校に通うことにした。家を出るとき母親が泣いた。もう二度と家には帰らないと思ったらしい。「また帰るから」と、責任の持てない返事をして東京のアパートに移り住んだ(オーバーかも知れないが家族を棄てる的な感覚があった)。

二ヵ月後、一時帰宅。レストランでウエイターのバイトをするため黒い学生ズボンと白いシャツが必要だったからだ。たった二ヶ月で激やせした私を見て心配そうな顔をする母親。強がる私。心から切望していた一人身生活が実現した時であった。

○いつしか、卒業後は家に戻ろうと心に決めていた。

戻らねばいけないと思った。それが俺の宿命だ。町内の様々な付き合いも親に代わって俺が引き受けようと思うようになった。

親元を離れてみて初めて親のありがたみが分かった。不自由な体にも関わらずここまで育ててくれた親への感謝の気持ちが自然と沸いてきた。24才だった。

○地元に戻ってから付き合った女性がいた。

私の親がろうあ者だと知った彼女の親から交際を否定されていたようだった。

結局、半分ノイローゼみたいになってしまった彼女。自分が身を引くことが最善の策と判断し交際は終わった。26歳だったと思う。

○前記のことがあってから人間不信になった。

本音と建前の大人社会に心底嫌気がさした。今の奥さんに親のことを打ち明けるタイミングは、かなり押し計ったように思う。どこからか先に彼女の親の耳に入る前に打ち明けようとも思った。もしかすると、この女性もああなるのかも?とも思った。でも、今の奥さんは違った。

○結婚というハードルは高かった。

相手の父親からは遺伝を心配された。私自身はそんなことは絶対無いと不確かな自信はあった。もし生まれても私自身覚悟はできているが、彼女の親を説得しなければならない。

どうやって調べたか覚えていないが保健所にそういった相談所があることを知った。相談所では私の家系図を少なくとも三代前から作って来なさいと言われた。私の父方母方の実家へ出向き事情を説明し家系図を作るための協力をいただいた。その家系図を持って相談所へ行ったが、結果は「遺伝するかも知れないし、しないかも知れない」という何とも曖昧な答えだった。

「夫婦の両方にその遺伝子が無ければ、ろうあ者が産まれてくる可能性はほぼ無い」とも言われた気がする。

そのことを相手の両親に説明したが勿論十分な納得などできるはずも無い。結局のところ(彼女の)母親のお力添えにより(半ば強引に?)結婚に至った。

○話はそれるが、叔父伯母(母方や父方の兄弟)にも兄弟(私の両親)が「ろうあ」であることを後ろめたく思っている者がいることを知り心の中で激怒したことがある。

叔父伯母の子供(私の従兄弟)の結婚式に実の兄弟である私の両親ではなく私への代理出席を求めてきたのである。仕方なく出席はしたが当然心から祝福などできるはずも無い。

○結婚後、初めは親と同居したが上手くいかなかった。

上手くいかなかった主な原因は、手話による通訳の必要性があるにも関わらずそれを私自身がうまくできなかったこと。そのことによる親と嫁さんとの擦れ違い。

初めは手話を覚えようと努めていた嫁さんだったがしだいに重荷になってしまったようだった。そんな嫁に対する私の不満。うまく立ち回れない自分へのいらだち。色々なことが原因で、負の回転を巻き起こすことになり同居は私にとって地獄絵とも言って良いほどの苦痛であった。仕方なく、外へ出たり再び家へ入ったりした。

二回目の同居では前回よりもうまくことは進んでいたが、子供の成長により物理的に同居することが難しくなってきた。仕方なく(でも運良く)直ぐ近所(20m先)の土地を購入し新居を作り現在に至っている。

 

 

 

壮年期(40才以上)

○親とスープの冷めない距離に住居を構えてからは、必要に応じて私が親の代わりや足代わりを努めてきた。

親子の関係は平穏を保ってきたように思う。時折(週3日ほど)親の所へ様子うかがいにも行った。

○平成19年1月、母親が病気のため他界。

その後は、父親の独居老人という生活が始まる。マメな父親なので、掃除洗濯は全てできた。ご飯を炊くのも味噌汁を作るのも大好きなうどんも作れた。ただ、おかずだけは作ることができない。そんな父親を助けてくれるのは本家の叔母さんだった。

○私自身、それからというものほぼ毎日父親の様子うかがいをしている。

家を作る時「いずれは親と同居できる家を」と思い、床は全てバリアフリー、勿論、親用の部屋も用意しておいた。父親もじき90才。そろそろ同居でもと思い切り出してはみたが、答えは前回と同様であった。

「一人で生活できる間は今のままで良い。身体が動かなくなった時には宜しく頼む」。きっと、私には(これ以上)できるだけ迷惑をかけたくないと思っているのだろう。

○高齢となった父親ではあるが、

いまだにグランドゴルフ愛好会に所属して週3日の練習に励み、セニアカーに乗っては毎日片道40分かけて近所の日帰り温泉施設に通っている。今、私が父親にしてあげていることは、病院の送迎やその他の送迎。グランドゴルフに関する仲間(健常者)への電話連絡の代行や、週末に県内の日帰り温泉施設へ一緒に行くことくらいだろうか。

高齢であることもそうだが、時折、水道水の出しっぱなしやテレビの音の大音量に気が付かないでいるので、できるだけ居宅の様子伺いだけはするようにしている。

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